先生は離島で働いたことがあるんですか?

特大のハンバーグが入った部活の高校生が食べるような昼弁当。それを完食してしまい、不覚にもウトウトしていた私もその声にはっとしました。ステージを見ると、その弁当を開ける前には明るい声で講演を始めていた女性演者の表情がこわばっていました。

 

2023年8月5日のことです。福岡ドームで開催された循環器関連の学会のシンポジウム。医師の働き方改革がテーマでした。最初に登壇したのは福島県医大の医師でした。福島県は全国で3番目の広大な面積を誇りますが(兵庫県の1.6倍)、緊急カテーテル治療ができる病院は限られており、それぞれの病院の勤務医師数も少ない現状があります。働き方改革を進めようとして治療拠点の集約化をはかると、今度は緊急時のアクセスで問題となる空白地域ができるという発表でした。大きな問題です。次は滋賀医大の医師でした。大学には年間の超過勤務時間が2000時間を越えるスーパードクターが数人いるという話でした。すごい人がいるものです。そして最後が冒頭の女性、厚労省の医系技官でした。医師の働き方改革を推進する行政の立場に沿った内容でした。医師の働き方の目指すところ、そしてそれが実現すれば医療は効率化され、メディカル・コメディカルの仕事の棲み分けが理想的なものに変化していくという明るい未来が語られていました。5月に開催された整形外科関連の学会でのシンポジウムでも講演をされ、好評だったそうです。しかし今回は同じ展開にはなりませんでした。場所もタイミングも悪すぎました。

 

1週間前の7月28日、この学会は「医師の働き方改革循環器救急診療の両立は不可能」と断じ、今後の循環器診療の在り方に関する提言を発表していたのです。我が国の急性心筋梗塞の死亡率は世界で最も低いレベルにあるのですが、その要因として緊急カテーテル治療を中心とした循環器救急診療体制が全国津々浦々に構築されていることがあります。しかし、この学会が2023年春に行った調査では、働き方改革が導入されるとスタッフが確保できず救急診療の縮小を迫られる施設が多く生じ、結果として福島県の先生の発表にあったような循環器救急診療の崩壊が危惧されることが明らかとなりました。多くの病院で働き方改革への対応が遅れている現状も報告されました。調査の結果を踏まえ学会では働き方改革の周知徹底に加え、施設集約化や輪番制の推進、病院管理者に対する循環器医の処遇改善のための働きかけ、そして循環器救急診療の維持が不可能となる地域に居住する住民への公示を提言していたのです。この提言の最後の部分は衝撃的です。特定の地域において、標準的な急性心筋梗塞治療を受けられないことを住民に告知するというものです。住民はあきらめて地域に居住を続けるか、そこから疎開するか選択するということなのです。

シンポジウム後半の討論には冒頭の3人の演者に加え、一人医師体制で循環器内科を支え緊急カテーテル治療も行っている地域の病院医師が参加していました。徳之島と長崎県郡部の病院でした。これまでもこの2つの地域では医師が出張等で留守にすると緊急カテーテル治療は不可能となっていました。加えて来年の4月からは28時間の連続勤務時間制限や9時間の勤務間インターバル、オンコール呼び出しに対して代償休息の付与が義務付けられます。病院管理者が法令を遵守した場合、徳之島では自衛隊やドクターヘリでの島外への搬送、長崎では片道一車線の一般道経由で1時間以上かかる救急搬送となるのです。『先生は離島で働いたことがあるのですか!』。そんな白熱した討論の中で放たれた発言でした。全国一律の医師の働き方改革の推進で救急医療の空白地帯が拡がろうとしている現状。感情の入った発言でしたがやむにやまれぬものであり、学会提言の趣旨からも外れたものではないように思えました。

『神の見えざる手』という言葉があります。経済学で市場において各個人の利己的な行動の集積が社会全体の利益をもたらすという自律的な調整機能のことです。私がここで言う利己的な行動とは、循環器救急に携わる医師の一人ひとりが治療を通じて、プロフェショナルとしての自己効力感の獲得を目指す行動のことを指します。地域の循環器救急医療はこの『神の見えざる手』で守られてきたのです。特に過疎地で地域住民の期待に応え崇高な使命感を持って働く医療者の幸不幸は、単に労働時間の長短で推しはかることはできません。

 

離島での勤務経験はなくても、耳を澄まし目を凝らせば、今後どういうことが起きるか想像することは可能です。行政に身を置く方々はその職位が高位であるほど、その判断が社会に及ぼす影響は大きいのです。関係者の努力で築かれた世界に誇る日本の循環器救急医療を守っていただきたいと思うのです。